印鑑にまつわるエピソード

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女がそんなハンコ持っちゃいけない! ウチの息子にくれ!!そうオジさんは言った。なんで?

この実印ちょっと古いんじゃないの?とわたしが妻に聞いたのは結婚して数年経った頃のことだったと思う。そして妻がわたしに返した言葉は「でもこのハンコにはちょっとした思い出があるんだよねぇ…」というものだった。それがどんな思い出なのか何か隠されたエピソードでもあるのかと、わたしが聞くと彼女はこんな話をおもむろに語りだしたのだった。

はじめにお断りしておきたいのは、この妻から聞いた話は今からけっこう前の1970年代の話なので、多少いい加減でつじつまが合わないところがあっても笑ってお赦しいただきたい、ということなのだ。

それは彼女が幼稚園の先生をやり始めたまだ新米先生の頃で、わたしの妻になるずっと以前のことだったそうだ。時は折しもバブルの絶頂期。オイルショックの危機もなんとか切りぬけて、日本では老いも若きも男も女も公務員もサラリーマンも、みんなこぞってお金を浪費することに奔走している観もあり、また誰もそれに何のてらいも感じていなかった時代でもあった。

むしろヤレもっと使え、もっともっと楽しいことはこんなにいっぱいあるんだぞ、とマスコミも世間も挙げて日本の好景気を礼賛し消費を煽っていたのだった。

そして円がそれまでの360円(凄いでしょう!)からようやく脱却できて変動相場になって、ドルが安くなり200円くらいで買えるようになったために、海外旅行熱はそれ以前にも増してますますと高まっていった。そして世間の風潮同様に、彼女の同僚たちも何人かの仲良しで連れ立って、その夏の長~い夏期休暇を利用して一週間の台湾旅行へと旅立って行ったそうだ。そして同僚たちが何事もなく帰ってくると、今度は職場ではお約束のお土産渡しの儀が行われ、なにかと喧しくなって親御さんたちのひんしゅくを買うこともあったというのは、若い女性たち特有のご愛嬌なのであろう。

しかしそれがもしお土産を買って来なかったということになったならば、また事情は大きく変わってくる。「忙しくて忘れちゃってワリィワリぃ!」で済む男の旅行とはまったく違い、それはもう大変なことになってしまうのだそうだ。人間関係にヒビが入りかねないとも。
「そんな恐ろしいこと誰も考えもしないよ」とのことである。

というわけで彼女ももらった台湾土産の何点かの品々の中に、そのこれから問題となっていく龍の透かし彫りがある象牙の印鑑」も混じっていたと言う。それには当然まだ印は彫られてはいないが、それは見事な龍が象牙の印鑑の軸?の上の方に透かし彫りになっているものだったそうだ。

そして間もなく誕生日を迎えようとしていた彼女はそれを大事にしまっておいて、その年末の彼女の誕生日がきた日に、母に「ねぇやっと二十歳になったんだからこれでわたしの実印作ってくれる?」とおねだりをしたのだそうだ。するとその場にたまたま居合わせて、その印鑑をためつすがめつ眺めていたオジさんが、突然「いくら象牙でもこんな装飾のあるハンコを女が持つもんじゃぁない! 代わりにもっとイイものをあげるからこれをウチの息子にくれないか」と言いだしたという。

えぇっそんなぁ、と彼女は突然の成りゆきに驚きつつも不承ぶしょうに承知したそうだ。いつもの事だけどなんて身勝手なオジさんだろうと諦めつつ…。

そしてそれからしばらくしてかのオジさんが「例の代わりのハンコ、これ持ってきたぞ どうだ? いい出来だろう」と実印のハンコをポンと渡してくれたのだそうだ。「結婚したらどうせ苗字が変わるんだから名前だけでいいよね」と、一生使いの実印にしようと決めて作った、その彫りたてホヤホヤのハンコを彼女が手に取ってどれどれと確かめてみると、もう彼女の名前はくっきりと彫られていて、確かに材質は同じ象牙だしケースも立派なワニ皮貼りだし、これはムリヤリ交換させられた「龍の透かし彫りのあったあれよりぜったいに高いはずだ」とは思ったそうだ。

しかしなぜか彼女の中ではどこか釈然としない思いだけが残っていたのだと言う。龍の透かし彫りへのかすかな未練なのだろうか。この話を聞いて、わたしもその龍の透かし彫りがある印鑑を見てみたくなったのは当然であろう。もちろんそのオジさんの息子(彼女のいとこ)に見せてもらえばいいのは分っているのだが、なにせ彼は今遠く一家をあげてニューギニアの地に暮らしているので、なかなかそのチャンスが巡ってこないのだ。

彼女(妻)はそうこうしているうちにわたしと出会って結婚。彼女の名のハンコは実印として多少の汚れは目立つようになったが、わが家の良いときも不調なときも立派にお役目を果たしてくれ、今なおバリバリの現役でつとめているのだった。

たった1本のハンコにも、探ればいろいろなエピソードがあるものなんだなぁと感心しきりになったその日のわたしだった。

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